2015年3月3日火曜日

3Dプリンター、発明したのは日本人 なのに逃した特許


3Dプリンター、発明したのは日本人 なのに逃した特許




1980年2月。名古屋市工業研究所に勤務していた小玉秀男(64)が、後に3Dプリンターの技術につながるヒントを得たのは、新聞の印刷プロセスからだった。

 名古屋市で開かれていた展示会。

 ガラス板の台座に液体樹脂が塗られていた。樹脂は光が当たった部分だけが固まる性質があり、洗い流すと固まった部分だけが盛り上がった。文字の形に光をあてると、その部分だけが盛り上がってハンコのようになり、そこにインクをつけて新聞を刷る――という仕組みだった。

 帰りのバスの中で突然ひらめいた。この工程を繰り返して樹脂を重ねれば、立体物が作れるはずだ。

 4月、小玉は手のひらに乗る大きさの2階建ての家をつくった。厚さ2ミリの層を27枚重ねた家は、細かい間取りやらせん階段、食卓まで作り込まれていた。

 小玉は特許を申請しようと周囲に相談したが、職務上の発明ではないと受け止められ、職場の支援は得られず、自力で特許は申請した。論文を書いて日本と海外で発表し、アイデアを公開したが、反響は芳しくなく、意気消沈。特許を得るには申請後に「審査請求」をする必要があるが、その手続きをしなかった。

 ところが、95年、小玉は英国の民間財団が優れた発明に贈る「ランク賞」を受賞。3Dプリンターの基礎技術を世界で初めて発表したことが評価された。このとき、共同受賞者がいた。米国のチャールズ・ハル。小玉に遅れること4年、84年に特許出願し、3Dシステムズというベンチャーを起業していた。

 3Dシステムズはいまや、米ストラタシス社に次ぐ3Dプリンターの世界の2大大手だ。小玉の試算では、もし自分が先に特許を取得していたら、日本だけで40億円、米国でも取得していたらもう1けた多い利益が日本側に生まれていたはず、という。小玉は当時の思いをこう振り返る。「失敗したと、悔しい思いをした。自分の研究成果の意義をもっと分かってもらう努力をすべきだった」

 米国ではいま、一般家庭にも3Dプリンターが普及しつつある。

 5月、西海岸のサンフランシスコ湾に近い広大な展示会場で行われた「メーカーフェア」。市民グループやベンチャーが、3Dプリンターでつくった作品を並べていた。アクセサリー、コップや花瓶、有名人の胸像まで。身近なものはお店で買わず、自分で作って楽しむ動きが広がっている。

 各国の企業が参加する世界最大の家電ショー「CES」で今年、昨年に比べて3Dプリンターのコーナーが急激に拡大した。

 そこにいた、3Dシステムズのいまの最高経営責任者(CEO)、エイブラハム・ライケンタルはいう。「3Dプリンターは今後の数年間で、かつてのインターネットのように家庭に急速に浸透していくはずだ。ロボット技術や人工知能のように、製造業を変えるだろう」

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