2013年9月14日土曜日

丸亀町商店街再開発事業


丸亀町商店街再開発事業


構想から34年 今年4月にG街区が完成
残るはD街区の完成を待つのみ

香川県高松市の人口は42万人。その中心にある丸亀町は400年の歴史がある。また、高松の中心商店街は、丸亀町商店街を核として8つの商店街がアーケードでつながっている。その総延長は2.7キロで、日本一を誇る長さである。その8つの商店街のほぼ南北の端に三越と天満屋百貨店があり、商店街の賑わいを支えている。
丸亀町商店街は南北に470メートル続き、平成2年に再開発のプランが立ち上がりAからGまでの街区に分けて開発が始まった。これまでA~Cまでの街区が完成し、今年4月にG街区が新たに完成した。構想から34年になるが開発はまだ続いている。国からの補助金もあるが、早くから商店街で駐車場事業を手掛け、その収益が開発費用の原資となっている。その開発の経緯について丸亀町商店街振興組合の熊 紀三夫常務理事にお話を伺った。

まだ絶頂期のときに危機を直感 壮大な再開発事業に着手

●具体的に開発の話が出たのは熊常務がまだ小さいときですよね。
熊 そうなんです。小学校に入るくらいでしょうか(笑)。バブルのやや後半の1988年に、丸亀町生誕400年を祝して連続100日もの間、連続してイベントを行い大変多くの方に来ていただいて、それは盛況だったと聞きいています。当時、ここの路線価はバブルで坪1300万円もしたんです。ですからテナント料は坪5万円くらいして、30坪の店の家賃は月150万円もした時代です。また当時、フランスのシラク元大統領がパリ市長のときに、丸亀町とパリ市は姉妹都市を結び、いろんなことを派手に行っていました。その時、先代の故・鹿庭理事長が何を思ったのか「このままいくと、この街はダメになる」と言われたんです。そして、青年会長に調査をさせたのが、開発のきっかけとなりました。何か、直感のようなものが働いたのでしょうね。
その後、平成元年に瀬戸大橋が開通して人が流出し、平成七年に「ゆめタウン高松」ができて四〇〇億円もの売上げを上げ、あっという間に中心商店街は疲弊してしまったんです。それまで、一人当たりの売場面積は全国で四三位で、郊外の大型店などは皆無でした。その後、驚くべきスピードで郊外開発が進み、平成二〇年には全国で二位になってしまいました。

●開発の原資は、駐車場事業の収益とお聞きしましたが...。
熊 鹿庭前理事長は、車社会になることを早くから想定し、商店街で有料駐車場をつくりました。当時は路上駐車をしてもとがめられない時代でしたので「路上にただで止められるのに、つくる必要があるのか」という人が大半でした。そのすぐ後くらいに、路上駐車が厳しくなって、どんどん駐車場が儲かってきたんです。この商店街には電車の駅はありません。ですからその代わりに車のターミナルが必要だったんです。鹿庭前理事長の先見の明はすごいと思いました。


地価が10分の1以下に下落 ピンチがチャンスを呼び込む


熊 当時、全国の商店街を視察しました。それもダメになった商店街を見て歩いたんです。共通して いたのは、駅を降りたところに消費者金融の看板があり、商店街にはそのATM機が設置されていて、英会話スクールやコンビニ、ナショナルチェーンのお店が多数出店していました。ようするに、自分で商売をするより貸したほうがよくなってきたんです。そうなると、商店街に個性がなくなり、どこも似たようになってきて、それなら駅から近いところや、駐車場がある便利な郊外の大型店に足が向きます。そして、人通りが少なくなった商店街から店が撤退すると、もう止めることはできなくなります。この、丸亀町も地元の店が抜けはじめ、チェーン店が増えてきました。地価が高騰したので貸すほうがよくなってきたんです。


その後、バブルがはじけて1300万円の地価が、一気に120万円まで下がりました。3万人以上あった通行量も1万人を切り、商店街の売上げも300億円から100億円以下に下がりました。商店主の多くは、土地を担保にお金を借りて事業を拡大をしていたので、借金だけが残りました。


当時、われわれはまちづくり会社を立ち上げ、土地の所有と利用の分離を進め、地権者から六二年間の定期借地権付きで土地を借り上げ、開発の準備をしていたところでした。バブルがはじけて土地も売上げも下がっていたので、再開発に希望を託して協力してくれる方が増えてきました。

●この再開発には、みなさん納得いただけたのですか。
熊 はじめは、10人いれば8人が反対でしたね。しかし、地価が下がったことが逆にチャンスでした。坪1300万円のときは、代々にわたり財産が残せると思ったのが、逆に消えそうになってしまったのですから、この再開発にかけてみようという人が増えたんです。もし、この開発が5年遅れていたら、できなかったかもしれません。

激減した住人を増やすため マンションを併設

●実際に再開発のプランを練りだしたのはいつごろですか。
熊 平成2年ごろからです。

●A街区からG街区までのプランができたのは?
熊 平成7年ごろです。私たちの開発は、「多くの人に、ここに住んでもらう」というコンセプトで進めました。われわれはハードの整備を進めていますが、器をつくっておしまいというわけではありません。完成してからが、本当のスタートだと思っています。これからますます少子高齢化が進み、人口が減る中で、街の拡大はあり得ません。コンパクトシティです。そして、人が住む街です。ここは、表通りだけでも昔は1000人もの人が住んでいました。それが平成16年にはたったの75人までに減ってしまいました。そこで開発にあたっては、マンションを建てて住民を増やす計画を立てました。そして、A街区に47戸のマンションを建てたところ見事完売することができました。続いてC街区に42戸、G街区には96戸のマンションを建てましたが、いずれも完売できました。また、G街区には175室あるホテルも併設しました。


われわれは表通りの開発を進めていますが、実は表通りより裏通りを魅力的にしていきたいと思っているんです。

●路地、横丁ですね。
熊 そうです。点から線の開発ができ、次はエリアマネジメントとして面の開発です。また、今までのように個人の土地に個人が建物を建てて、個人が経営し、個人の利益というのはもう成り立ちません。公共性を持たせたエリアとしてとらえるべきです。

D街区は高齢者対応と娯楽施設の充実を図る

●A街区からG街区までのコンセプトを教えてください。
熊 A街区は三越があり、三越直営のルイ・ヴィトンが出店していて、ナショナルブランドのお店を一つのステータスと位置付けています。南に行くにつれてOL対応のお店とか飲食店ゾーンがあったりします。そしてG街区はオープンカフェなどをつくり、食を重視し、カジュアルをコンセプトにしています。


どちらも多目的に使える広場をつくりました。そこではさまざまなイベントが行われています。


D街区は、2階に空中広場をつくる予定です。2階をメインにして温浴施設や映画館、そして高齢者対応の食事までついた賃貸しマンションを研究しています。そして、子どもから高齢者まで満足いただける街を目ざしています。


ヨーロッパの街並みは2核1モールになっていて、教会と市場があり、その間を多くの人が通り、賑わいを創出しています。高松は三越と天満屋が2核になり、その間のエリアに8つの商店街があります。さらに商店街が潤っていくために、その間に位置する商店街のA・D・G街区がマグネット的な重要な役割を果たします。

●A街区の巨大なドームにはじまり、ガラス張りで自然の光が入り込む高いアーケードがつづき、G街区は中庭的でオープンカフェなどがあり開放的ですね。またトイレもきれいで感動しました。
熊 まだ一部、アーケードが未完成のところもありますが、アーケードの高さは日本一でしょうね。それと、トイレは重要です。1日に何千人もの方に使っていただくのですから、清潔に保つように清掃は頻繁に行っています。

●お金は、相当かけられているのでしょうね。
熊 国からの支援もいただいていますが、約3割は商店街(まちづくり会社)が負担しています。これも、駐車場収益のおかげです。費用はA街区に100億円、G街区は150億円、そしてD街区も150億円を予定しており、全体の総開発費は約500億超に達します。

子どもたちの思い出がこの街でつくれるように

●まだ開発は続くと聞きましたが。
熊 D~F街区が残っています。ここは古いアーケードが残っていますが、地権者と話を進めて2~3年の間に完成させたいですね。ここが終われば、とりあえず完成です。

●器はもうすぐ完成ですが、それからですね。
熊 ソフトですね。昨年は200回を超えるイベントを行いました。それを維持して、さらにプラスアルファして、お客さまに飽きられないようにすることですね。

●新たに仕掛けたいイベントがあればご紹介ください。
熊 子どもたちを巻き込んだイベントをやりたいですね。それは、私が10年前、ここに戻ったときに、子どもたちに丸亀町商店街の印象を聞いたときに「お母さんの服しかない」「食べるお店がない」「遊ぶ場所がない」という答えが返ってきました。最近聞いてみたのですが、もっとすごくて「行ったことがないから、わからない」という答えでした。それを放っておいたら、この子どもたちが大人になっても、この街を救ってほしいときに、愛着がなければ手を差し伸べる人がいなくなってしまいます。


全国で、まちづくりにかかわっている人の多くが「昔はよかったよね~」と言いますが、いい思い出のない子どもたちは、街を救おうなんて思わないでしょうね。だから、子どもたちにここでよい思い出をつくってもらいたいのです。校外学習だったり、演奏会だったりとね。

一番の危機は身内からの離脱

●再開発事業は長年続いていますが、その間に周りを大型店に囲まれるという恐怖はなかったですか。
熊 ありませんね。郊外の大型店とうちは、扱う商品は別物として考えています。われわれとしては、商店街に足を運んでいただき、さらに多くの方々にここに住んでいただくことを目ざしています。一番ダメージを受けたのは、郊外の大型店でも「ゆめタウン」でもなく、高松のウォーターフロントとしてできた駅前の「サンポート高松」です。たくさんのイベントが行われ、人の流れが変わってしまいました。郊外は距離がありますが、身近なところにつくられると、人が分散してしまいます。

●これまで、一番の危機がありましたら教えてください。
熊 身内の離脱です。開発が進み、人通りが増えて売上げが上がると、開発をしなくてもこのままでいいということで、離脱していく方がいます。個人の利益を優先する人が増えてくるのが一番の危機ですね。

●最後にお聞きしますが、全国の商店街で活性化事業を行っていますが、ことごとく失敗しているなかで、丸亀町が成功しているはなぜでしょう。
熊 1つは、土地が安いときに始めた駐車場事業からの収益です。次に、A街区ができたということです。A街区の成功で、再開発の賛同者が増えたことです。最後に、前鹿庭理事長の先見の明とリーダーシップです。もちろん、現理事長も前鹿庭理事長の理念を引き継いで、この再開発の先頭に立たれています。

●完成を楽しみにしています。

総延長2.7キロある高松の中心商店街をくまなく視察したが、本当に人通りが多い。丸亀町のように近代的商店街もあれば、今では少なくなってしまった寝具店や金物店が元気に商売されている商店街もあり、それぞれに特徴があり趣がある。


また、30年以上にわたり開発を続け、総費用500億円も費やした再開発事業は国内に例を見ないだろう。商店街の専従職員も1人や2人で、兼任されているところも多いなか、丸亀町商店街の職員は10名を超えている。


ただ、日専連高松が土地をまちづくり会社に定期借地してC街区に建てたビル(6階までが商業施設、7~9階がマンション、マンションは完売)のテナントが残念ながら埋まりきっていない。これからをぜひ期待したい。しかし、再開発をしたことで人通りが増えたことは間違いない。従前のままであれば、ただ疲弊していくのを待つことになったかもしれない。

0 件のコメント:

コメントを投稿